croken7のブログ

詩集・日記

愛のかたち-2

ここでの「愛のかたちは」成熟過程における相手への想い、不器用な私の「愛のかたち」に触れていきたいと思います。最近人との関わりが煩わしく思っている人が多くなったと、日々の暮らしの中で感じています。他人への情が薄れゆく中、目の前のその人に手を差し伸べてみると、一期一会の関係性も硬い縁と変わってくるかもしれません。又、真の理解者は、本来父親・母親であったはずが、現代では親子の愛情が希薄になり、痛ましい事件が後をたちません。これも親から十分な愛情を受けていなかったり、親の愛情を子供が感じ取る事が出来ず、不器用で偏った愛情表現しか出来ない大人になってしまった末の事だと思います。この世の悲惨は戦争・紛争だけだはなく、一家族単位での確執から生まれてくるように思えます。親が子供を愛さなければ、子供は愛を知らない大人に育つのも当然だと思います。また一方的な愛情表現を与えていても、同じく子供は偏った愛しか学べないのだと思います。私も子供を持つ2次の父親ですが、私も両親の愛情を十分感じてこれずに、悩み・苦しみ・迷いの連続で、子供を授かるまでは自分の未熟さに強いコンプレックスを持ってきました。当然のように子育ては問題だらけでした。しかし「親は子の鏡」「子は親の鏡」であり、自我が芽生えた子供は親が先生となり育ちます。そこで子供を鋭く洞察しながら、子供の視点では目の前の出来事をどのように捉えているのか考えてみました。親である前に、友だちとして接していく中で、自分の限界や逆に可能性を知らない子供は、常にポジティブです。そのポジティブな姿勢に、親の学ぶ点、一緒に成長していける要素があるのではないでしょうか。私はかねてより、伸び伸びと明るく、人の心に(自分の心を含み)敏感な子供に育って欲しいと願っていました。しかし途中から子育てに対する姿勢の誤りにきづきました。子供に望む事を親が実践してみせるだけではダメだと思いました。子供には子供の人格、性格があります。自分の子供だからといって好きにしていいわけがありません。子供と言えども尊敬し、子供から学ぶ姿勢が必要であると今は思います。子供は時として偉大な先生ともなります。この姿勢からは、子供を憎んだり、貶したりする気持は生まれてきません。日々子供を注視し、鏡である子供を見ながら日々自身も成長していきたいものです。ご意見お待ちしております。尚、拙い文章表現で申し訳なくおもいます。

×

非ログインユーザーとして返信する